さなぎのなかみ

鬱々とした日々のこと。

ミミック

真っ赤な林檎の中身が黄色くて衝撃を受けた記憶はない。

 

何が入っているでしょーか、と差し出された卵を振って確かめた憶えもない。

 

見るものすべてが新鮮だった時期の、早く世界に適応しようと、とにかく目につくものを覚えなければいけなかった頃の、数あるうちのひとつとして埋没してしまった記憶。

 

思い出せないだけなのか、「そういうもの」として刻みこむしか時間がなかったのか、わからない。

 

たとえば果物なんて、一回限りではあるけれど、ドキドキわくわくの宝庫だと思うんだけど。

他の著作は文庫化するのかな待ち遠しいんですけど

夢や希望、絆とか明るい未来なんて言葉を言われると、身構えてしまう。基本的にそういった陽性の語句ばかり出てくるような小説は読まないし、現実では、嘘でも口から言いたくはない。雪舟えま『地球の恋人たちの朝食』(上・下)では、そんな遠いところにある言葉たちが頻出する。きらきらしてて、愛がいっぱいで。

 

でも、かわいい。とにもかくにも、かわいい、という言葉がぴったりくる。たとえるなら、我々の住んでいる地球がもういっこあって、そっちの地球ではこどもとおとなが逆転してて、こっちの地球のこどもに向けるかわいいねえを、同じようにおとなに向けてかわいいねえと言っているかのような。

 

地球と言っても、べつの惑星の話だからこんなに平気。拒否反応はない。愛とか夢とか言われても。なんて、現実的に考えると、やはり文体かな、と思う。

 

雪舟えまさんが書くから。だから。つまり、これを読んで優しい気持ちになったりとか、そういうのは、ぜんぜんない。

 

 

 

地球の恋人たちの朝食(上)  

失われた電池を求めて

今、何時だろう、ふと顔を上げてみる。リビングの壁に掛かった大きめの時計、針が指し示す時刻は8時35分。そんな筈はない。ご婦人宅にお邪魔したのは正午過ぎ、未だ2時間も経っていない気がするが。ケータイで確認する。16時。正確な時間が分かってホッとする。

 

電池が切れたまま変えていないのだろう、と思ったのも束の間、玄関からリビングに至るまで、見たところ他に時計は無かったと気付く。針が止まっていることを知らないのだろうか。この家のすべての時間を司っているかのような、位置と大きさであるというのに。

 

東京の真ん中の、マンションの一室で、時間を気にしない生活を送る老婦人。コンクリートのなか、日の出とともに起床し、日の沈みとともに床につく。この空間だけが切り取られているみたいだ。窓を開ければ町の喧騒やネオンの光がちらつくというのに、見えない空気の壁が確かにあるようで。

 

お邪魔しました。そう言って辞去する際に、縁起でもないことを考えてしまった。もしあの時計が、残りの寿命を表していたのだとしたら、などと。ちょっとしたタイムラグ。それとも。迷い込んでしまったか。最期の謁見者としての。あ、扉が閉まってしまう。

 

17時5分。ポケットに手を入れてたしかめる。こちらの時間に干渉するほどの力は無い。

すべてがSFになる

池澤春菜『SFのSは、ステキのS』を読む。SFのコラムなのでSFの話がメインなのだけれど、有名どころを齧っている程度のSF読みでも大変楽しめる。

 

メインはSFでありSFではない。これは、SF層がターゲットと見せかけて、本読み(多少なりともSF含む)かつ、オタ気質を持った、業の深い人間に向けたものである。と思う。

 

オタク=非モテの考察、外面はとりあえず置いといての内面からのアプローチ。これこれこういうわけで、そもそも性質からして違うのだよ、とつい感心してしまう内容。他にも、想像の余地がなければ駄目だ、電子書籍の利点、欠点、デジャヴの感覚はあの感覚、等書かれていることは「この人はわかってる人だ!」と思うことばかりだし、出てくるたとえが一々的確でわかりやすい。

 

ドラえもんを例に挙げる人は星の数ほどいるけれど、秘密道具で何が欲しいかと問われた時に、「かべ紙ハウス」を挙げる人を初めて見た。

 

で、ほぼ諸手を挙げて賛成状態なんだけど、一箇所だけ、未読の本についての項。一部抜粋。

 

どれだけ未読があろうとも、どれだけ場所が限られていようとも、けして、けして。

いいですか、けして。

本を横にして積んではならない。

 

本は横になった瞬間に死にます。これ、絶対。

 

これ、肯定できない。それが間違っているとかじゃなくて、僕はまた違う意見を持っている、という話。本は、積むべき。いや、正確に言うと、背表紙を見えるようにして並べてはならない。

 

バイキング形式の料理屋でたくさん食べるには、一度にたくさんの料理をとらず、こまめに何度も行き来するのが重要だと聞く。なぜなら大量の、種々雑多な料理を前にすると、目で満足してしまい、食欲が沸いてこなくなるから。

 

それと同じで、タイトルがわかる状態で並べてあると、常に視界にちらついて、読んでいないのに読んだ気になってしまう。読んだ気にならずとも、読む気も減退してしまう。

 

一番良いのは、箱に詰めて、選ぶときは素早く出し入れ、かな。

 

 

 

 SFのSは、ステキのS

 

ハロウ

木地雅映子『氷の海のガレオン』を読み返す。

 

ふらっ、と指先の誘われるがままに本を開き、気付くと始めから終わりまで通読している。そんな風に、定期的に読み返す本の内の一冊。

 

木地さんの作品は、好きだけど、好きと言いたくない。好きよりも手許に置いておきたいという位置づけ。同じような作風であったり、似た雰囲気の作品を知らない。ある程度本を読む人ならわかると思う、木地雅映子とカテゴライズされて、自分の中の特別な位置を占めている。

 

杉子もどこかで生きている、と読むたび思う。大抵の本は、読み終わってぱたんと本を閉じてから、登場人物たちが生き生きと動き出すことはない。物語の余韻に浸ったり、内容について思考を巡らせることはあっても、あの子も必死で生きているから、なんていつまでもフィクションに身を窶したりはしない。

 

2,3日で消えてしまう魔法ではなくて、微かにだけど細い煙のように続いている。

 

他の小説にはない、何かしらを、受け取れる。受け取る、よりも分け与えられる、に近いような。生きるだけで磨り減っていく魂のメモリがじわじわ盛り返してくる。

 

 

 

氷の海のガレオン/オルタ (ピュアフル文庫)  

固形じかけのオレンジ

小学生の頃の手作り石鹸。夏休みの自由研究か何か。

 

緑色の石鹸を作ろう、そう思い立ち、キッチンの棚を漁った。丁度使いかけの抹茶粉末があったので、それを使うことにした。白と緑のマーブル模様になるだろう。出来上がりのイメージはできていた。

 

作業を終えて、そろそろ固まったかなと見に行くと、身に覚えのない色の石鹸ができていた。それは鮮やかなオレンジで、誰か自分以外の家族も作ったのかなと思った。けれど使った容器や置いた場所から考えて、それはどうも自分の作ったものらしい。

 

母親も見に来て、言った。「化学変化しちゃったね」。カガクヘンカ? 耳慣れない言葉と、目の前のオレンジ石鹸に、どうもすべてが嘘くさく見えてきた。脳内完成図と眼前のモノがいつまで経っても一致せず、ただぼんやりとその場に佇んでいた。

 

きっと自分の気付かないうちに、だれかがこっそり手を加えたに違いない。ビタミンCとか、オレンジ色になる薬でも入れたんだろう。なんでこんないたずらをしたのかわからないけど、許してあげよう。

 

成長し、化学変化の意味を知り、小学生当時の自分の、許した相手の大きさを知る。

歌集 野口あや子『夏にふれる』

気に入ったのいくつか。

 

 

かあさんは食べさせたがるかあさんは(私に砂を)食べさせたがる

 

Re:Re:を振り切るような出会いかたピアスの数がまた増えていた

 

しゅっとでた切符のかどがよじれててわたしたちなにか間違えました?

 

青空に飛行機雲が刺さってるあれを抜いたらわたしこわれる

 

精神を残して全部あげたからわたしのことはさん付けで呼べ

 

内臓の入る太さじゃないって って うすいスカート持ち上げ笑う

 

よわいひとと規定されたあときみにしかできないのだとだむだむ言わるる

  

ほそながきものが好きなり折れやすくだれかれかまわず突き刺しやすい

 

もう黙れお前は喋んな冬空の眼のしたでわかきひとらは

 

 

 歌集 夏にふれる