さなぎのなかみ

鬱々とした日々のこと。

イースターではない、白くて丸い、あの卵

蜂飼耳『空席日誌』より。

 

この本は、小説とエッセイ、日記を混ぜ合わせたような文から成る一冊。その中に「特別なたまご」という一遍がある。

 

出先で他者から卵(生)をひとつ、プレゼントされるというお話。

 

他の著者のエッセイでも何度かそういう出来事を読んだことがあるので、話のネタにはなるくらいには珍しいことなのと同時に、卵をプレゼントしてもおかしなことではないと考えている人も一定の割合でいることがわかる。

 

目の前に差し出されたら、自分だったら戸惑う。卵……卵? なんで卵? しかも生卵

見た目はつるつるしてころんとしてキレイ。

贈り物として悪くもなさそう。

冷蔵庫にストックされてる食材のひとつ、割れやすい。

贈り物として向いてなさそう。

卵のイメージをその場で一新してしまうほどの順応性は僕には無いだろう。

 

ここでの登場人物は、それを贈り物の一つとして、さも当然のように受け取っている。なぜ卵なのか、などと無粋なことは言わない。

 

段々、「卵のプレゼント」というものの面白さに気付いてくる。考えてもわからないおもしろさ。贈り物としておかしくない見た目と、それを送ろうと考えた人の気持ち。自分の持っている卵に対するイメージ、固定観念。いろいろ混ざって、でも全然わからない。「なんで(笑)」から抜け出せない。何故。なんで。宇宙からの贈り物と相対しているような。あ、宇宙人と仲良くなってお別れのときに卵をプレゼントされたら二重の意味で「え?」ってなりそう。

 

 

 空席日誌

 

夢の中で入るコンビニは品物が入荷されない

気付いたら店内で何かを買おうとしている。ふらふらと、何処かへ行くついでに寄ったようだ。目的地に着くまでの腹ごしらえのつもりなのか、パンや菓子の棚の前にいる。隙間が多く、透明のプラ板が目立つ。だいたいが、食べたいものが見つからなくて、そのまま出てきてしまう。それは同時に、夢の出口でもある。売り切れ品が多いのは、既に誰かが買っていったからなのか。夢の奥に辿り着く前に、ふらっと立ち寄れるコンビニ。この建物は、各々の夢の交差点に位置しているのかもしれない。いつも出遅れてしまっている為に、泣く泣く退散して現実へと引き返す。買いたいものが見つかったら、まだ夢を見続けていられるだろう。早く布団に入れば、その分早く入店できるのだろうか。

岡崎隼人『少女は踊る暗い腹の中踊る』

この作品、メフィスト賞を受賞したものの、文庫化はされず、作者も以降作品を発表していない。陰鬱で荒々しい空気は好みなのに、嘆かわしいことに高評価を聞かない。感想やレビューを当たってみると、ほぼ決まってこのような意味のことが書かれている。「舞城王太郎の劣化版」。

 

影響受けているという点で比べているんだろうけど、ジャンルとして括った場合にこの二人の作品は似て非なるもので、同一括弧内には含まれないように思う。帯にも書かれていたように、ジャンルは「青春ノワール」。

 

ノワールと冠する作品は結構希少で、馳星周花村萬月くらいしかぱっと思いつかない。僕が知らないだけかもしれないけど。ノワールはミステリやSFと違い、作風や文体に依るところが大きいので(菅原和也がノワールと呼べるか微妙なところはこれに起因する)、舞城作品を読む限り、ノワールの雰囲気は感じられない。

 

つまりこれは、グッピーとウサギのどちらが可愛いかと言っているようなものなので、比較対象とはならないということを言いたい。

 

この本の初読時、僕は二十歳前後だったように思う。作者が執筆当時の年齢とそんなに変わらない。ダークな雰囲気の作品が好きだったから、もう好みのど真ん中撃ち抜かれたことと記憶している。

二度目に読んだ時はそれから二、三年後で、読書量も格段に増え目も肥えてきた頃だった。おもしろかったことはおもしろかったが、語彙力の無さがちらついてしまいのめり込むほどではなかった。

 

 

本に読むべきタイミングというものがあるとして、この作品の読まれるべきタイミングというのは、きっととても短く狭い期間だったんだろうな。

 

好きな本、だった、になってしまうのが悲しいところではあるけど。

 

 

 少女は踊る暗い腹の中踊る (講談社ノベルス)

 

古川日出男『沈黙/アビシニアン』

覚え書き程度。自分なりの解釈。ことばによる世界。

 

「十五年間など、人生とはだれも呼ばない。短すぎるし、若すぎる。あるいは幼すぎるのだろう。でも、生きるのは事実むずかしかった。生き延びるのは。」(p.392)

 生き延びるために、ひとりの少女(エンマ)は、書物をあさる。泣く。学ぶ。十億年が経つ。マイナス・ゼロからのスタート。ここがはじまり。

 

「もしかして、字が、読めないの?」と直截に、訊いてみる。

「そうね」

「まるっきり?」

「わたしのことばに、文字がないの」(p.470)

 エンマは文字を失う。言葉は通じるが、文字が読めない。ことば と 文字 が乖離する。文字という殻が破れ、剥き出しのことばが顕れる。殻はもう身に着けることはできない。ことばだけの存在となる。

 

「いま、わたしはあらたに『わたし』として誕生した。」(p.527)

 今までのわたし、それは文字だ。元わたし。わたしは「わたし」として新生する。それは「わたし」であり「アビシニアン」であり「ことば」である。

 

「だから、いま、世界を亡ぼすことばをいうわ。あなたに口づけしながら。シバ、あなたをもとめながら。

 もとめながら。

 愛してる。愛してる。愛してる」(p.588)

 ラストの締めくくりで囁かれるのは、チープだけどストレートな愛の言葉。この「世界を亡ぼす」という部分、比喩ではない。エンマは、既に文盲となり文字を解さない。エンマの発する言葉は「ことば」であり、世界ができているのも「ことば」によってである。つまりエンマのことばは、世界を構築する部品と同じ素材でできているので、ことばによって世界を崩し、また組み直すことができる。

 

 

 沈黙/アビシニアン (角川文庫)