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さなぎのなかみ

思うこと諸々。

ミミック

雑記

真っ赤な林檎の中身が黄色くて衝撃を受けた記憶はない。

 

何が入っているでしょーか、と差し出された卵を振って確かめた憶えもない。

 

見るものすべてが新鮮だった時期の、早く世界に適応しようと、とにかく目につくものを覚えなければいけなかった頃の、数あるうちのひとつとして埋没してしまった記憶。

 

思い出せないだけなのか、「そういうもの」として刻みこむしか時間がなかったのか、わからない。

 

たとえば果物なんて、一回限りではあるけれど、ドキドキわくわくの宝庫だと思うんだけど。

脳にふれる(物理)

雑記

のうみそ、のうみそ、街角のパン屋さんで使われているような、茶色い紙袋の口をすぼめ、つき出してくる。手を入れろ、ということらしい。

 

中の物体に触れると、指先の皮膚が一枚の板切れになってしまったかのような冷たさに、身がすくむ。握りつぶさないように、鷲掴みにしてみる。やわらかい。

 

これはおとうふ。覗き込んでみると、薄手のビニール袋に入った白いものが、たしかに見える。脳のかたさと豆腐のかたさは近似している、との説明を受ける。

 

そんな豆知識への驚きよりも、長時間冷蔵庫に入れておいたのか、芯から凍りそうな冷たさのほうに、驚いた。その、脳の温度は、正しいのだろうか。

視線の向かう先

雑記

小雨が降ってくる。軒先に立ち空を見上げる。薄墨色の空は本降りになることを予感させる。傘は持っていない。止むのを待つか走って帰るか決めかねている。家まではまだ距離がある。ひさし、あるね。隣から声がする。伸ばさないのかな。何のことだろう。同じように空を見上げるその人は、降りしきる雨を見ているわけではないみたいだ。

 

天と自分の間に位置する、伸縮式のひさしのことを言っているらしい。同じような位置で、同じように上を向いているのに、視界に入ってこない。そこにひさしがあると、言われて気付く。

 

今の人、見た。今の見たでしょ、変だよね。街中ですれ違う人、もの達。大抵一瞬で通り過ぎてしまうそれらを視界に引き留めることは難しい。なんで、今見てたじゃん。あ、あなたは見たのですね。そんな素振りも見せなかったのに。いつのまに。顔と体はその方向を向いていても、焦点が定まらない。不躾にじろじろ見るのも申し訳ないと思う。二つのレンズで捉えることは、容易ではない。もっとクリアな視界が欲しい。

掌握

雑記

ベッドに寝転んで、天井を見上げる。ボーッとして、何も考えない。一面真っ白な壁紙で、そんなに新しいわけでもないのに、シミ一つ見つからない。電球と、火災報知器、そこだけ飛び出ている。かさいほうちき、と声に出して呟いてみる。あ、と思う。

 

視線を少し下げ、壁に向ける。白い壁紙を覆うように立ち並ぶ本棚、ラック。壁にかかったスーツ、喪服。どれもこれも、知っているものだ。あれ、と指をさされたら、これは、とちゃんと名前を言える。

 

起き上がり部屋を見渡してみる。机、財布、ボールペン。リュック、ベルト、洗濯バサミ。うん、どれも言える。この部屋に、知らないものはない。ぜんぶ、名付けられ、管理下に置かれている。

 

突如、部屋の中央に、なんだかよくわからないものが出現したらどうしよう。そんなことを考えてみる。一目見てわからなくて、角度を変えてもわからなくて、いくら調べても、誰に聞いてもわからない。不安だ。きっと不安になるだろう。ただいまと帰ってくるたびに、得体のしれないものに相対峙しなければならない生活。落ち着かない。

 

出先で、早く家に帰りたい、と思う。そんな時は、知らず安心を求めているのかもしれない。わからないものは面白いけれど、そればかりでは疲れてしまう。そういうことだろうか。

他の著作は文庫化するのかな待ち遠しいんですけど

夢や希望、絆とか明るい未来なんて言葉を言われると、身構えてしまう。基本的にそういった陽性の語句ばかり出てくるような小説は読まないし、現実では、嘘でも口から言いたくはない。雪舟えま『地球の恋人たちの朝食』(上・下)では、そんな遠いところにある言葉たちが頻出する。きらきらしてて、愛がいっぱいで。

 

でも、かわいい。とにもかくにも、かわいい、という言葉がぴったりくる。たとえるなら、我々の住んでいる地球がもういっこあって、そっちの地球ではこどもとおとなが逆転してて、こっちの地球のこどもに向けるかわいいねえを、同じようにおとなに向けてかわいいねえと言っているかのような。

 

地球と言っても、べつの惑星の話だからこんなに平気。拒否反応はない。愛とか夢とか言われても。なんて、現実的に考えると、やはり文体かな、と思う。

 

雪舟えまさんが書くから。だから。つまり、これを読んで優しい気持ちになったりとか、そういうのは、ぜんぜんない。

 

 

 

地球の恋人たちの朝食(上)  

蝿の王国

雑記

オートロックの付いていない、昔からあるマンション。階段を昇っていくと、虫の死骸があたりに散らばっている。夏が近づくにつれ格段に数が増えるそれは、ほとんどが、黒く、小さい。蝿だ。一階から五階まで、満遍なく落ちているため、誰かが撒いているのかと思うほど。

 

誰か、死んでるんじゃないですか。でも死臭感じませんよね。

 

なるほど、そういえば、このマンションの住人を見たことはない。何度も訪れているのだから、一度くらい遭遇していても良さそうなものなのに。唯一会う人物は、管理人だけ。

 

何気なく見た一室の、窓が微かに開いている。見える景色は、暗い室内、明かりの灯らぬ蛍光灯。鼻を近付け、こっそりにおいを嗅いでみる。昔懐かしい家屋のにおいがする。馬鹿馬鹿しい考えだと頭を振る。

 

帰り際、管理人に挨拶をする。手元に握られた千円札には、久々に見る夏目漱石が写っていた。

失われた電池を求めて

雑記

今、何時だろう、ふと顔を上げてみる。リビングの壁に掛かった大きめの時計、針が指し示す時刻は8時35分。そんな筈はない。ご婦人宅にお邪魔したのは正午過ぎ、未だ2時間も経っていない気がするが。ケータイで確認する。16時。正確な時間が分かってホッとする。

 

電池が切れたまま変えていないのだろう、と思ったのも束の間、玄関からリビングに至るまで、見たところ他に時計は無かったと気付く。針が止まっていることを知らないのだろうか。この家のすべての時間を司っているかのような、位置と大きさであるというのに。

 

東京の真ん中の、マンションの一室で、時間を気にしない生活を送る老婦人。コンクリートのなか、日の出とともに起床し、日の沈みとともに床につく。この空間だけが切り取られているみたいだ。窓を開ければ町の喧騒やネオンの光がちらつくというのに、見えない空気の壁が確かにあるようで。

 

お邪魔しました。そう言って辞去する際に、縁起でもないことを考えてしまった。もしあの時計が、残りの寿命を表していたのだとしたら、などと。ちょっとしたタイムラグ。それとも。迷い込んでしまったか。最期の謁見者としての。あ、扉が閉まってしまう。

 

17時5分。ポケットに手を入れてたしかめる。こちらの時間に干渉するほどの力は無い。