隣人を愛せと私が言った、私の与り知らぬところで。
「さよなら、わたし。
さよなら、たましい。
もう二度と会うことはないでしょう」
伊藤計劃『ハーモニー』のコミカライズは、原作をちゃんと読み込んでるのが感じられてとても楽しめた。期待してなかった分、特に。キャラの表情にも引っかかるところがあって、何かな、と考えたら、あれだ、ジト目が可愛い。
それはさておき、『ハーモニー』のラストについて考えること。
ずっと考えてきて、とりあえずの答えが見つかった。バッドエンドという考えは変わりないけれど、自意識を持たない大衆の思うがままになることへの嫌悪が先で、意識を手放すことに対する嫌悪はそれに付随したものだった。
分け隔てなく慈しみ、誰もが仲良しこよしで足並みそろえて、嘘くさい書き割りみたいな世界に対する嫌悪感。
「わたしたちはおとなにならない、って一緒に宣言するの。
このからだは
このおっぱいは
このあそこは
この子宮は
ぜんぶわたし自身のものなんだって、世界に向けて静かにどなりつけてやるのよ」
「自分のカラダが、奴らの言葉に置き換えられていくなんて、そんなことに我慢できる……」
「わたしは、まっぴらよ」
ミァハが言っていたこと、同じことを感じていた。
意識を手放すことは悪いことではない。普段の生活でも、睡眠時や酩酊時など、簡単に意識喪失を経験しているはずだ。問題は、意識の無くなった自分の体を、自分の体のまま、所有者不在で勝手に使い続けること。
意識を手放したなら、もう動いてはいけない。命は尊いだなんて、私の知らないところで、私の口から言わせないで。思ってもないことを言わなければいけない、そんな屈辱に耐えられない。
つまるところ根底に流れるは、意識を持たない、見せかけの善人たちとその社会への拒否反応か。