さなぎのなかみ

鬱々とした日々のこと。

すべてがSFになる

池澤春菜『SFのSは、ステキのS』を読む。SFのコラムなのでSFの話がメインなのだけれど、有名どころを齧っている程度のSF読みでも大変楽しめる。

 

メインはSFでありSFではない。これは、SF層がターゲットと見せかけて、本読み(多少なりともSF含む)かつ、オタ気質を持った、業の深い人間に向けたものである。と思う。

 

オタク=非モテの考察、外面はとりあえず置いといての内面からのアプローチ。これこれこういうわけで、そもそも性質からして違うのだよ、とつい感心してしまう内容。他にも、想像の余地がなければ駄目だ、電子書籍の利点、欠点、デジャヴの感覚はあの感覚、等書かれていることは「この人はわかってる人だ!」と思うことばかりだし、出てくるたとえが一々的確でわかりやすい。

 

ドラえもんを例に挙げる人は星の数ほどいるけれど、秘密道具で何が欲しいかと問われた時に、「かべ紙ハウス」を挙げる人を初めて見た。

 

で、ほぼ諸手を挙げて賛成状態なんだけど、一箇所だけ、未読の本についての項。一部抜粋。

 

どれだけ未読があろうとも、どれだけ場所が限られていようとも、けして、けして。

いいですか、けして。

本を横にして積んではならない。

 

本は横になった瞬間に死にます。これ、絶対。

 

これ、肯定できない。それが間違っているとかじゃなくて、僕はまた違う意見を持っている、という話。本は、積むべき。いや、正確に言うと、背表紙を見えるようにして並べてはならない。

 

バイキング形式の料理屋でたくさん食べるには、一度にたくさんの料理をとらず、こまめに何度も行き来するのが重要だと聞く。なぜなら大量の、種々雑多な料理を前にすると、目で満足してしまい、食欲が沸いてこなくなるから。

 

それと同じで、タイトルがわかる状態で並べてあると、常に視界にちらついて、読んでいないのに読んだ気になってしまう。読んだ気にならずとも、読む気も減退してしまう。

 

一番良いのは、箱に詰めて、選ぶときは素早く出し入れ、かな。

 

 

 

 SFのSは、ステキのS

 

ハロウ

木地雅映子『氷の海のガレオン』を読み返す。

 

ふらっ、と指先の誘われるがままに本を開き、気付くと始めから終わりまで通読している。そんな風に、定期的に読み返す本の内の一冊。

 

木地さんの作品は、好きだけど、好きと言いたくない。好きよりも手許に置いておきたいという位置づけ。同じような作風であったり、似た雰囲気の作品を知らない。ある程度本を読む人ならわかると思う、木地雅映子とカテゴライズされて、自分の中の特別な位置を占めている。

 

杉子もどこかで生きている、と読むたび思う。大抵の本は、読み終わってぱたんと本を閉じてから、登場人物たちが生き生きと動き出すことはない。物語の余韻に浸ったり、内容について思考を巡らせることはあっても、あの子も必死で生きているから、なんていつまでもフィクションに身を窶したりはしない。

 

2,3日で消えてしまう魔法ではなくて、微かにだけど細い煙のように続いている。

 

他の小説にはない、何かしらを、受け取れる。受け取る、よりも分け与えられる、に近いような。生きるだけで磨り減っていく魂のメモリがじわじわ盛り返してくる。

 

 

 

氷の海のガレオン/オルタ (ピュアフル文庫)  

固形じかけのオレンジ

小学生の頃の手作り石鹸。夏休みの自由研究か何か。

 

緑色の石鹸を作ろう、そう思い立ち、キッチンの棚を漁った。丁度使いかけの抹茶粉末があったので、それを使うことにした。白と緑のマーブル模様になるだろう。出来上がりのイメージはできていた。

 

作業を終えて、そろそろ固まったかなと見に行くと、身に覚えのない色の石鹸ができていた。それは鮮やかなオレンジで、誰か自分以外の家族も作ったのかなと思った。けれど使った容器や置いた場所から考えて、それはどうも自分の作ったものらしい。

 

母親も見に来て、言った。「化学変化しちゃったね」。カガクヘンカ? 耳慣れない言葉と、目の前のオレンジ石鹸に、どうもすべてが嘘くさく見えてきた。脳内完成図と眼前のモノがいつまで経っても一致せず、ただぼんやりとその場に佇んでいた。

 

きっと自分の気付かないうちに、だれかがこっそり手を加えたに違いない。ビタミンCとか、オレンジ色になる薬でも入れたんだろう。なんでこんないたずらをしたのかわからないけど、許してあげよう。

 

成長し、化学変化の意味を知り、小学生当時の自分の、許した相手の大きさを知る。

歌集 野口あや子『夏にふれる』

気に入ったのいくつか。

 

 

かあさんは食べさせたがるかあさんは(私に砂を)食べさせたがる

 

Re:Re:を振り切るような出会いかたピアスの数がまた増えていた

 

しゅっとでた切符のかどがよじれててわたしたちなにか間違えました?

 

青空に飛行機雲が刺さってるあれを抜いたらわたしこわれる

 

精神を残して全部あげたからわたしのことはさん付けで呼べ

 

内臓の入る太さじゃないって って うすいスカート持ち上げ笑う

 

よわいひとと規定されたあときみにしかできないのだとだむだむ言わるる

  

ほそながきものが好きなり折れやすくだれかれかまわず突き刺しやすい

 

もう黙れお前は喋んな冬空の眼のしたでわかきひとらは

 

 

 歌集 夏にふれる

隣人を愛せと私が言った、私の与り知らぬところで。

 

「さよなら、わたし。

 さよなら、たましい。

 もう二度と会うことはないでしょう」

 

伊藤計劃『ハーモニー』のコミカライズは、原作をちゃんと読み込んでるのが感じられてとても楽しめた。期待してなかった分、特に。キャラの表情にも引っかかるところがあって、何かな、と考えたら、あれだ、ジト目が可愛い。

 

それはさておき、『ハーモニー』のラストについて考えること。

 

ずっと考えてきて、とりあえずの答えが見つかった。バッドエンドという考えは変わりないけれど、自意識を持たない大衆の思うがままになることへの嫌悪が先で、意識を手放すことに対する嫌悪はそれに付随したものだった。

 

分け隔てなく慈しみ、誰もが仲良しこよしで足並みそろえて、嘘くさい書き割りみたいな世界に対する嫌悪感。

 

 

「わたしたちはおとなにならない、って一緒に宣言するの。

 このからだは

 このおっぱいは

 このあそこは

 この子宮は

 ぜんぶわたし自身のものなんだって、世界に向けて静かにどなりつけてやるのよ」

 

「自分のカラダが、奴らの言葉に置き換えられていくなんて、そんなことに我慢できる……」

 

「わたしは、まっぴらよ」

 

ミァハが言っていたこと、同じことを感じていた。

 

意識を手放すことは悪いことではない。普段の生活でも、睡眠時や酩酊時など、簡単に意識喪失を経験しているはずだ。問題は、意識の無くなった自分の体を、自分の体のまま、所有者不在で勝手に使い続けること。

 

意識を手放したなら、もう動いてはいけない。命は尊いだなんて、私の知らないところで、私の口から言わせないで。思ってもないことを言わなければいけない、そんな屈辱に耐えられない。

 

つまるところ根底に流れるは、意識を持たない、見せかけの善人たちとその社会への拒否反応か。

 

 

 ハーモニー (1) (カドカワコミックス・エース)

 

 

 ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

 

知らない映画を知らないまま

ふとかすかな記憶がよみがえった。小さいころ、タイトルも内容も知らない映画を観せられそうになったことがある。視聴覚室での上映とかの学校行事ではなく、映画館で一般上映されている映画だ。

 

親は家族全員を連れて行こうとした。どこからその情報を仕入れたのかは知らないが、「観た方が良い」から始まったであろうそれは、いつのまにか「観なければいけないもの」に変わっていた。「どんな映画なの?」と訊いても「わからない」という答えが返ってきた。親も未だその作品を観ていなかった。

 

得体の知れないところに連れて行かれるような恐ろしさが少し、あった。

 

それは学校で年一回ある血液検査に似ていた。僕は毎回気持ち悪くなって吐いたり貧血で倒れたりしていたので、当日は地獄に行った方がマシなんじゃないかと思うほど。それでもギリギリまでは考えまいと平気の平左でその時間が来るまでは何ともないフリをしていた。一列に並んで自分の番が来るのを待つ段階に入って、やっと自覚する。もう逃げられない。

 

映画館に足を踏み入れるまではまだ大丈夫。恐怖がちらついていても見て見ぬフリはできる。行ってみたら何でもない(ま、映画だしね)可能性は残っている。心臓の鼓動が早くなるにはまだ早い。

 

結局、その映画を観ることはなかった。親が観にいって、これは子供には退屈だろうと判断を下したからだ。得体の知れない恐怖の影は、僕の髪を撫でただけで去って行った。

クリハラタカシ『冬のUFO・夏の怪獣』

総天然色漫画。四コマだったり短編だったり。ナナロク社HPでいくつかの作品が読める。

「それはホントに? ウソに?」「なーん!」など妙に味のある言い回しがクセになる。

 

たとえば歌人や詩人は日常の些細な違和を切り取るのが上手いと聞いたことがある。それに似ている。興味を持たなければ、嵐の日の水平線の形など気にしない。フダン日常を送る分には、人工衛星のエネルギー源など気にならない。そういうちょっとしたところに焦点を当てつつ、小学生の頃の傘の使い方、あーやったねそんなことも、と懐かしさと共感を惹き起こすコマもある。

 

暇なキョーコさんの人を食ったような行動。これがお話として成り立つには、打てば響くとまではいかないにしても、相応のリアクションをとれる相手がいる必要がある。もちろん作者の頭の中から生まれたものなのでそういう相手を出すのは当たり前のことなのだが、坊主頭の少年や博士くんによってキョーコさんの奇行(とまではいかないけれど)も一層味わい深いものとなっている。ニヤリ。

 

 

 冬のUFO・夏の怪獣