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さなぎのなかみ

思うこと諸々。

剥製

昔ながらの旅館は入り口に剥製の置いてあることが多い。羽を広げた鷲や雉や山猫やら様々だ。同じ地球上に位置し同じ空間を共有しているのに剥製の纏う空気とこちらの纏う空気には確たる違いがある。ガラスケース一枚隔てただけでこんなにも違う。いくら見つめても目が合わない。

よく「死んだように眠る」という言葉が使われる。しかしどんなに微動だにしない人でも、じっと目を凝らすと呼吸しているのが気配でわかるものだ。生きているものはそれとなく知らせてくる。死んだものは何も言わない。

写真を見て記憶を呼び覚まし涙するよりも酷い。目の前にいるのにもういない。

生前の姿を眼の前にして生前の姿を思い浮かべようとしてしまうことの矛盾。

ベストタイミング

翻訳モノを初めて読んだときに感じた、薄皮一枚隔てたような、ヴェールの向こう側を読んでいるような感覚はもう、とうに忘れてしまった。翻訳されたという一プロセスを経てのちでは、慣れ親しんだ日本語でもすんなり入っては来ないのかと思ったもの。

 

ボルヘス『伝奇集』の初読時は本の読みはじめた時期に近い。以降2年ごとに開いてはみる。しかし面白さがさっぱりわからない。至る所で名を聞くこの作品を、面白く読みたいと思う。まだその段階ではないらしいので、また2年後。

 

汀こるもの『空を飛ぶための三つの動機』はデスゲームで人が次から次へと死んでいくので生き残りをかけたサバイバルに胸が熱くなるのとドードー鳥がなぜ絶滅したかをほんのり切なく書いているのでこのシーンだけでも読むと良いと思うんだけど如何せんこの作品に辿り着くまでに結構な巻数を重ねているので人にお勧めできない。シリーズ物なのでこれだけ読んでも話はわからないしかといって一作目から読んでと言えるような作家でもない。

 

子供は曇りなき目で世界を見ている、というのは正しいか。

大人になったら虫が苦手になった、という話はよく聞く。改めて見るとグロテスクで不気味でよく今まであんなの平気だったものだと。

もしかして大人の方がくっきりと世界を見ているのかもしれない。

星新一という作家

鏡明『二十世紀から出てきたところだけれども、なんだか似たような気分』を読んだ。内容は、膨大な知識量によるSFについての考察や評論など。その中での一項、星新一についての話。

 ここで著者は、星新一という作家について、語るべきことを持っていない、と書いている。しかし。

 

星新一という作家のもたらすアイディアは、書かれなかった物語のアイディアではないのか、という気がする。

たとえば、一つのアイデアを出し、一つの作品を作ることを、マークシートを埋めていくことと同義だと考えてみる。数多の作家が、一枚の巨大な答案用紙に向かって、こぞって空白を塗り潰していく作業。そのうち、詰まったり、解けない問題というのが出てくる。

塗られなかった空白が、考えられなかったアイデアであり、書かれなかった物語である。

 

つまり星新一は、今後解かれない問題をすでに知っていて、それらをいくつも先回りし解いてしまった。そして亡くなった。あとはできるでしょ?とポツポツ黒点の見えるマークシートを残して。

 

それほど偉大な存在だということ。語るべきことがないなんて、大嘘じゃないか。こんなにも的確に評した賛辞は、そうそうないんじゃないかと思う。

ものごとのわかるとき

近藤聡乃エッセイ集『不思議というには地味な話』中の一遍に、こんな逸話が紹介されている。

 

幽体離脱したら、天井の隅にいつの間にか穴が空いていてすいこまれた。中はびっしりと水晶が生えた空洞で、とても心地良い音楽が流れていた。そこをゆっくり回転しながら上昇しつつ、「モーツァルトはこの音楽を楽譜に書き留めたのだ!」と確信した。

 

この話を読んだ時に、似たような経験をしたことがある、とすぐさま思った。普段さして疑問に思わない事柄でも、そうか、そういうことだったのか、と核にあるものを知ってしまうような感覚。これを例に挙げるなら、僕はモーツァルトの音楽の源流に興味は無いし、疑問に思ったこともない。普段頭の隅に上らせることもないのに、ふとした瞬間わかってしまう。

 

ふとした瞬間が何時訪れるかについては、僕の場合は起き抜けの半覚醒時が多い。多いと言っても一年に一回くらいだし、完全に目が覚めるに従って到達したはずの事象は何処へなりと遠退いていってしまうことがほとんど。最初にこの感覚を経験した時は、真理の一端に触れてしまった、などと大仰なことを考えた。錯覚だとわかっているし、およそ論理的な説明などできないのだけれど、自分の中で真理と呼ぶくらいはまぁ許してもらえるだろう。

 

自分のエピソードをひとつ記す。

・セットしておいた目覚まし時計が鳴り、布団から這い出た。体がだるくて満足に眠れなかったよう。目覚ましと対峙して思う、ああ「この目覚まし時計は睡眠を餌に鳴り続けている」。今まさに体中から、僕が本来とるはずだった睡眠を吸い取っている、目覚まし時計に必要なのは乾電池ではなく傍らで眠り続ける存在で、僕とおまえは相互の関係なのか。

 

寝ぼけ眼でいる限り、目覚ましは鳴り止まない。完全に覚醒した時、時計もまた完全に沈黙する。

全てのカラスは黒くない

ヘンペルのカラスとは一切関係ない。白いカラスを見た、という話。

 

太陽高いお昼時、一本道を歩いていると、空から黒い物体が下降してくるのが見えた。たぶんカラスだろう、とさして注視もせずにいたら、瞬間、まっしろに変貌した。そこだけ、ネガポジ反転。足が止まり、まじまじと見つめたところで、やはりその物体はカラスだった。カラスは黒、白、黒の変化を遂げた後、何事もなかったようにV字を描いて去っていった。

人間の髪の毛にできる天使の輪みたいなものだろうか。日光の反射によって黒い羽根は余すところなく白くなり。それとも。本来の姿を取り戻したり、とか。

車窓からの景色

招き猫を見る。どこにでもいる量産品であろうそれを、二度見てしまう理由はどこにあるのだろう。右手に大判を抱え、左手で福を招いている、猫。つぶさに観察していると、左手が歪なことに気付く。若干、無理をしているのだ。関節の可動域からして、無理な体勢では無い筈なのに、大判が重いのか、パースが狂っているような感じを与えてくる。そんなことでは、招かれざる客ばかり来てしまうよ、と呟いてみる。

 

クマを見る。ケーキ屋の前のベンチに、クマのぬいぐるみが置いてある。待ち客のお相手用なのか、神妙に鎮座ましましている。3時間くらいのち、またケーキ屋の前を通る。客が来なくて畏まっているのに疲れたのか、クマはベンチの上でだらりと寝そべっていた。

 

コアラを見る。個人商店のような構えの店に、客寄せとして置かれているそれは、正確にはコアラなのかもわからない。くすんだ灰色をしていて、すらっとした手足を持った四足獣なのだが、顔に特徴的な鼻があるためにコアラをイメージさせる。たまに前を通る時に、ちらと一瞬見る程度なので、細部を確認する暇はない。

客寄せとして置いてあるなら、それは正しい判断なのか疑問に思わないこともない。『リンダキューブ』に出てきそうなかたちをしているのだ。

初めて店の前に出てきたときは、素寒貧の生まれたままの姿であった。客引きの使命は未だ与えられていない状態。なんだろう、あの生物は、と思った。

二度目見た時から、華々しく着飾られるようになった。肩からたすきを掛けられて、全体が綺麗なお花で彩られていた。相変わらず、何の生物かはわからなかった。

雨の日に、一度通った。コアラはいなかった。てっきり雨曝しにでもなってでもいるのかと、失礼な想像をしていた。持ち主には、愛されているのだろう。次に会えるのは、いつだろうか。

天丼はギャグの基本ということですね

つばな『第七女子会彷徨』10巻、とても良く収斂されたラストだった。以下本書のオチについて触れています。

 

 

新城カズマサマー/タイム/トラベラー』に、こんなTT(タイムトラベル)分類表がある。

 

改変型

 1……個人的な過去をやりなおそうとする話

    過去へ戻り、より良い人生を生きようとする話

  1b:やりなおしそこねて、ひどい目に遭う話

 2……文明規模で過去をやりなおそうとする話

  2b:やりなおしそこねて、ひどい目に遭う話

 3……未来から、現在を変えるべくやってくる話

  3b;やりなおしそこねて、ひどい目に遭う話

非改変型(省略)

 

第七女子会彷徨をこれに当てはめてみると、近いのは3だが、正確には表にない4……「未来から、未来を変えるべくやってくる話」。未来を変えるために現在を変えるのではなく、未来を変えるために未来を変える。矛盾している、ようだけど事実現在は変えていない。

 

切なさ残る、あっと驚くまとめ方。良い連載作品でした。